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やきとりの歴史

やきとりの素材となる「鶏」が日本に来てから、現在までの歴史を紹介するページです。
「やきとり」がいつ頃誕生したか、それ以前の鶏料理の扱い、などなど。
歴史書を紐解きながら、日本人の食文化の一端に迫ります。

古代~奈良時代 ――鶏の伝来と肉食禁止令

鶏はいつ日本に渡来したか?

「鶏の祖先と考えられる野鶏は南方アジア一帯に分布の広い赤色野鶏、地域的な分布をみせる灰色野鶏とセイロン野鶏、緑襟野鶏の四種がある」「今日地球上に広く分布する鶏の原種は、四種の野鶏(ヤブニワトリ)の中の赤色野鶏であろう」と山口健児著『鶏』(法政大学出版局)に記されている。

この本によれば、東南アジアにおいて家畜化された鶏は中国で改良が加えられ、朝鮮半島から日本に伝えられたようだ。樋口清之著『食物と日本人』には、「馬や牛は、犬、豚、鶏などとともに、新石器時代末(紀元前3000~2000年頃)に家畜用として渡来した動物であった」ともある。

鶏は飛ぶ力が弱くて捕えやすく飼い馴らしやすいことに加え、夜明け前に規則正しく鳴くことが時計の代わりに用いられた。また、雄鶏は自分の棲むなわばりを守ろうとする性質を持つため、他の雄が入ると闘争本能をむき出しにする。この行動を活かして「闘鶏」という遊戯が始まり、共同体の娯楽用に鶏が飼われるようになった。

弥生時代の中期から後期(0~100年頃)にかけての遺跡である長崎県壱岐の原の辻遺跡や福岡県大川市の酒見貝塚などでは鶏の骨が出土している。

縄文時代の食物
鳥類
アホウドリ、ハト、ガン、ウミウ、マガモ、ノスリ、キジ、アカゲラ、クマゲラ、カラス、ハシブトガラス、ツル、オオタカ、トビ、ワシ、シロサギ、燕雀目の小鳥

※樋口清之著『日本食物史』より

埴輪となった鶏

古墳時代(3~4世紀頃)になると、鶏を形取った埴輪「鶏形埴輪」が古墳の副葬物となった。人物や動物、鳥、武具、家などの具体的な形をした埴輪を「形象埴輪」といい、葬礼用の儀式や祭祀につかわれている。

「鶏形埴輪」は、鶏が生活に身近な存在であったことを示すとともに、葬送に重要な役割を担っていたと考えられる。鶏は、夜の世界から朝の世界へと人々を導く鳥であり、闇を払う力を持つと信じられていた。

水鳥を形取った「水鳥形埴輪」もある。見知らぬ土地から飛来する水鳥は「魂を運ぶもの」と考えられ、悪霊を防いで死者の魂を浄化すると考えられたようだ。「水鳥形埴輪」は、くちばしが大きく平らで首が長く、脚に水かきがあるといった水鳥特有の特徴を持ち、「鶏形埴輪」と大きく違う。

規則的な朝鳴きや飛来といった鳥の行動は、当時の人間たちにとって不可解なものであり、神の思し召しによる行動と受取られた。鳥はあの世とこの世を結ぶ存在の「聖鳥」となり、死者の霊を守るために「埴輪」へと姿を移した。

愛媛県四ツ手山古墳出土の「鶏形埴輪」

愛媛県四ツ手山古墳出土の「鶏形埴輪」

日本初の食肉禁止令

天武4年(676)に天武天皇より「牛、馬、犬、猿、鶏の宍(しし=肉)を食うこと莫(な)かれ」という詔が出された。

牛や馬は農耕などの苦役に活用され、犬は家を守る。鶏は刻を告げる鳥として飼育されていた。猿は飼育されてはいないが、人間に近く親しまれてきた動物である。しかし、これらの動物以外の鹿や猪など、野生動物を食べることは禁止されていないことから、食肉すべてを禁じたものではないようだ。

天平13年(741)に出された条には「馬牛は人に代わりて勤しみ、労(つと)めて人を養う。茲(ここ)に因りて先に明(あきらけ)き制有りて、屠(ほうむ)り殺すことを許さず」とあるように、家畜の保護を強制したものだ。深く考えると、こうした禁令が出されるということは、牛、馬、犬、猿、鶏を食べる人がいたことを示している。これらの詔勅以後、仏教が深く生活に浸透していき、穢れにつながる動物食の慣習はすたれていき、食用の動物といえば、野鳥などに限られるようになった。

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『古事記』に記された鶏

『古事記』は、天武天皇が「諸氏族が持っている帝紀および本辞は、もはや真実と違っていて虚偽を加えている」と聞き、その虚偽を正して後世に伝えようとしたというものだ。舎人(とねり)の稗田阿礼(ひえだあれ)が編纂を始めるものの天武天皇の崩御で中断したが、太安万侶(おうのやすまろ)がそのあとを引き継いで完成させた。

『古事記』では「天照大御神(あまてらすおおみかみ)見畏(かしこ)みて、天の石屋戸(いわやど)を開きてさしこもりましき。ここに高天原皆暗く、葦原中国悉(ことごと)に闇し。これによりて常夜往きき。ここに万(よろず)神の声(おとなび)はさ蝿なす満ち、万の妖(あやかし)悉に発(おこ)りき。ここを以ちて八百(やおよろず)の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の子思金神(おもひかねのかみ)に思はしめて、常世(とこよ)の長鳴鳥を集めて鳴かしめて」とある。鶏は、太陽神である天照大御神を再びこの世に呼び戻す役割を果たすのだ。「常世」とは海の彼方にあるとされる永遠の世界のことで、「長鳴鳥」とは声を引いて長く鳴く鶏のこと。永遠に続くように刻の声をあげる鶏を、『古事記』の作者は「常世の長鳴鳥」と表現したようだ。邪気を払い、太陽を呼ぶものとして、鶏の声の霊的な力が信じられていたことを示している。

記紀に登場する鳥獣
古事記
ウサギ、サル、シカ、ウマ、クマ、ウシ、イノシシ、キジ、ウ、シギ、ツル、ニワトリ、ガチョウ、サギ、スズメ、カモ
日本書紀(上記以外)
ヒバリ、ハト、カラス、トビ、カササギ

※桜井秀・足立勇共著『日本食物史』より

『万葉集』に登場する鶏

『万葉集』は、奈良時代につくられたわが国最古の歌集だ。大伴家持らの手で編纂されたといわれ、全20巻に約4500首の和歌が収められている。鶏の歌は14首。「とり」「かけ」「にわつどり」と呼ばれるとともに、「東」の枕詞として「鶏が鳴く」という言葉があることからも、刻を告げる鶏が当時の人々に親しまれていたことがわかる。

庭つ鳥(にわつとり)鶏(かけ)の垂り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも
読み人知らず
鳴く鶏(かけ)はいやしき鳴けどふる雪の千重(ちえ)に積めこそ吾が立ちかてね
大伴家持
物思ふと寐ねず起きたる朝明にはわびて鳴くなり庭つ鳥(にわつとり)さへ
読み人知らず
息の緒に我が思ふ君は鶏(とり)が鳴く東の坂を今日か越ゆらむ
読み人知らず

また、ウズラ、キジ、ヤマドリ、シギ、カモ、アジカモ、トラツグミなども詠まれているが、興味深いのは東歌の「都武賀野(つむがの)に鈴が音聞こゆ可牟思太(かむしだ)の殿の仲子(なかち)し鳥狩(とがり)すらしも」だ。[都武賀野=地名、可牟思太=人名、仲子=次男](訳/都武賀野に鈴の音が聞こえる。これは可牟思太の殿の次男が鳴らしている。鳥狩をしているようだ)

「鳥狩」とは鷹狩りのことだ。万葉時代、すでに鷹に小動物や鳥などを捕獲させることが行われていたことがわかる。『風土記』などによれば、それ以前には、カスミ網や矢で鳥を捕えることも行われていたようだ。

万葉集に登場する鳥獣
鳥類
カモ、ツル、ウグイス、カリ、シギ、ハト、ヤマドリ、キジシメ、モズ、ニワトリ、ツグミ
獣類
シカ、イノシシ、クマ、キツネ、ムササビ、ウサギ

※桜井秀・足立勇共著『日本食物史』より

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平安時代 ――平安貴族は鶏を食べたか?

平安時代の肉食

延暦十三年(794)、桓武天皇により奈良の都は平安京に移された。天武天皇以来、何度も出された食肉禁止令であるが、桓武天皇もその例にもれない。禁止令が出されるのは、肉食をする者がかなりいたということを証明していることになる。

肉食を好む人もいた。
太政大臣をつとめた藤原長良は大の肉好きとして知られていたが、仁明天皇の死に際し、肉食を断ったと『文徳実録』に記されている。
後村上天皇は、獣肉をはばかることなく食べたので、都に帰ることができなかった。これは天照大神の怒りに触れたに違いないと『海人藻芥』にある。

しかし、幾度も出された肉食禁止令は、肉食を罪悪視する感覚を醸成していった。肉食を穢れとみなす仏教思想と相まって、多くの日本人は、家畜の肉を食べなくなっていった。
そのため、鶏は時を告げる道具や闘鶏のために飼われ、食料となることは少なかった。

鶏は朝鳴きとともに、自分のテリトリーに他の鶏が入ると、相手に飛びかかって蹴爪で相手の首や胸を切り裂く習性を持つ。
この習性を利用して、日本でも平安以前から「鶏合せ」という名で、闘鶏が行われた。平安時代末期の『年中行事絵巻』には「鶏合せ」が描かれている。神事や占いとして行われた「鶏合せ」は、宮廷や神社で行われ、次第に人々の人気を集めた。

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卵や鶏を食べると地獄に堕ちる

『源氏物語』や『枕草子』などの平安朝文学においても、鶏の声は朝が来たので別れなければならない心の動きを示す描写として使われている。通い婚だった当時、女は男の元を訪ねることが通常だった。

卵を食べることでさえ、仏罰の対象となることもあった。弘仁十三年(822) 頃成立した日本最古の仏教説話集『日本霊異記』には「常に鶏の卵を煮て食いて、現に悪死の報いを得る縁」という章がある。いつも卵を煮て食べていた男は、その報いで火が一面に襲いかかり、焼け死んだというのだ。「善悪因果教に云わく『今身に鶏の子を焼き煮る者は、死して灰河地獄に堕つ』というは、これを謂うなり」

鶏が地獄の主となつた草紙もある。奈良国立博物館に収蔵されている『地獄草紙』には、怒る雄鶏が罪人たちを蹴散らす姿が描かれている。紅蓮の炎に包まれた鶏は、口から火焔を吐き、地獄の恐ろしさを人々に印象づける。この鶏地獄は「むかし人間にありしとき、こころ愚かなるによりて、いさかいを好み、あるいは、生けるものをわびしめ、とりけだものを悩ます者、これに生まる。この地獄に、猛きほくほ身に満ちたる鶏ありて、罪人をしきりに蹴り踏む」とある。肉を焼き、卵を食べるのは、もってのほかの行為なのである。

また、自分のテリトリーに他の鶏が入ると戦いを挑む鶏は、相手に飛びかかって蹴爪で相手の首や胸を切り裂く習性を持つ。そのため、闘鶏は全世界に普及している。

日本でも、闘鶏は平安以前から「鶏合せ」という名で行われた。平安時代末期の『年中行事絵巻』には「鶏合せ」が描かれている。神事や占いとして行われた「鶏合せ」は、宮廷や神社で行われ、次第に人々の心をつかみ、生活に浸透していった。

平安文学に登場する鶏
源氏物語
帚木の巻、夕顔の巻、須磨の巻、若菜上の巻、東屋の巻、蜻蛉の巻
枕草子
  • 38段は鳥のことを記しているが、「鶏」の記述はない。
  • 鳥(鶏)の声も、はじめは羽のうちに鳴くが、口をこめながら鳴けば、いみじう物ふかく、遠きが、明るままに近く聞ゆるも、をかし。(70段)
  • 夜をこめて鳥(鶏)のそら音にはかるとも世に逢坂の関はゆるさじ 逢坂は人こえやすき関なれば鳥(鶏)なかぬにもあけて待つとか(129段)
  • 293段に鶏の鳴き声に驚く記述あり。

美味しい鳥料理といえば雉子

鶏の食用は禁止されていたが、野鳥を食べることは許されていた。
醍醐天皇第四皇女・勤子の依頼で承平四年(934)頃に源順が編纂したという百科事典『和名類聚集』には「雉子、鶉、鴨、雁、鵞、鴎、兎、鹿、猪、鳩、豚」が記載されている。この時代、これらの肉が食べられたようだ。

延喜五年(905)に藤原時平らによって編纂された『延喜式』「主計上」の巻に「雉きたひ」(「きたひ」とは干し肉のこと)が記されている。

平安後期の代表的な文人官吏・大江匡房が、家に伝わる儀礼を著した『江家次第』には、「大臣家大餐」に「汁(汁膾魚を別坏に盛り、雉焼之に有り)」、「東宮御元服」の干物に「干鳥、楚割」、追物に「小鳥」、「任太政大臣事」の汁物に「汁膾鳥足」などの記述がみられる。また、「雉子」「鴨」「小鳥」という材料名があるものの、料理には雉子が多く用いられたようだ。

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鎌倉時代~戦国時代 ――武士の時代のやきとり

中世、鳥の代表といえば雉子

野鳥の中でも雉子は別格の存在感を持つ。
14世紀に吉田兼好が著した『徒然草』百十八段には「鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やん事なき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり」と書かれている。また、15世紀の『四条流包丁書』にも「鷹の鳥には如何なる白鳥なりとも上をすべからず。雉子の鳥に必ず限るべし」「ただ鳥とばかり言うは、雉子のこと也」とある。

室町時代の故実書『海人藻芥』には、「大鳥は白鳥、雁、雉子、鴨、この他のものは供御に備えずなり。小鳥は鶉、霍、雀、鴫、この他のものは供御に備えずと云々」と記され、天皇の食事にはこれらの鳥しか出されることがなかったようだ。

室町時代の料理書『四条流庖丁書』によれば、鷹狩りで手に入れた雉子は「鷹の鳥」と呼ばれ、「雉子の鳥に必ず限るべし。何にても鷹の取りたる鳥をば賞翫勝りたるべし。鷹の鳥を人に参らする時には焼物より外にすべからず」とあり、調理にかかる前に雉子を主人に見せ、そのあと、ご馳走となった。1528年に成立した『宗五大艸紙』では「鷹の鳥のくいよう。春の鳥にはなんてんの葉をかんながけに敷きて焼鳥にして出し、亭主鷹の鳥のよし申されば、箸を手に持ちながらゆび二つにてつまみてくうべし」とあり、「鷹の鳥」の作法が確立していたことが分かる。
とにかくも、この時代の鳥の王者は、雉子だったようだ。

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中世の鳥料理

「干鳥」「膾」「焼物」「羹」「煮物・煎物」などの鳥の料理が中世の料理書に登場している。
「干鳥」は、雉子の肉を塩をつけずに干して、削ってたべるもの。
「膾」は、生で食べる刺身。身を造りにし、醤をつけて食べた。荒巻して置いていた鳥を湯に入れ、さまして薄く引き蓼酢で食べることもあった。「焼物」は、身の中に少し赤身が残るように水をかけ、塩を振って焼く。女性には直垂、男性には鳥の足を出す。

串焼きで出されることもあった。鳥の直垂を筋交いに切り、串に刺してあぶる。中の汁を押し出して胡桃をかけて乾けばまたあぶる。
「羹」には鳥あつものがあった。鶴や白鳥、雁などを酒塩や味噌の汁に入れ、薬味を添える。
「煮物・煎物」には「雁の皮煎」があった。雁や鵠(うぐい)、菱喰(ひしくい)などの皮をキノコとともに煎る。

鎌倉時代初期の武士は質素な食事をとっていた。しかし、時代を経るに従い、力をつけてきた武士たちは、次第に豪華な食事を身につけていくようになった。また、室町時代になると、肉食の記録が野鳥を除いてみられなくなる。この時代の日本人は、肉を忌むようになっていたようだ。

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南蛮人がもたらした肉食文化

室町時代の肉食忌避に風穴をあけたのは、鉄砲とともにヨーロッパの文化を運んできた南蛮人たちであった。今まで禁止されていた肉を喜んで食べる南蛮人たちの姿は、日本人に大きなショックを与えた。日本を訪れた宣教師や商人の影響で肉が日本人の食卓に並ぶようになったものの、のちに迎えるキリシタンの禁圧と鎖国が行われるようになり、再び肉食は暗い時代を迎えるようになった。

秀吉はキリシタンの宣教師に有益な家畜である牛や馬を食用にすることを尋ねている。しかし、家畜を食べるという肉食は日本の農業経済をゆるがし、キリシタンの日本侵略の一手段として受け止められた。そのため、キリシタン弾圧が始まると、「肉食する者はキリシタン」という考え方が一般に行き渡り、肉食の習慣はすたれてしまった。

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江戸時代 ――江戸時代のやきとり

鶏がでてくる「料理物語」

寛永二十年(1643)の「料理物語」には鶏が食材として挙げられている。
さまざまな鳥の料理が紹介されてある中に「鶏。汁、煎り鳥、さしみ、飯にも、玉子はふわふわ、ふのやき、みのに、丸に、蒲鉾、そうめん、ねり酒、いろいろ」の文がある。さまざまな汁物の具に使われたり、醤油や酒などで味をつけて煎りつけた料理や刺身や鶏飯として食べられたようだ。

「焼鳥」として山鳥、鸞(ばん)、けり、鴫、「串焼」として雁、鴨、鷺、五位鷺、雲雀、水鶏の名が挙げられている。しかし、この時代の「焼鳥」は小鳥を開いたものや、肉の小片を焼いたもので、「串焼」の方が現代のやきとりに近いものであったようだ。

延宝2年(1674)の『江戸料理集』には「焼鳥には鴫類、うずら、ひばり、小鳥類、雉子、山鳥、、ひよ鳥、つぐみ、雀、鷺類、鳩、けり、鷭(ばん)」18世紀の『伝演味玄集』には「焼鳥に成る可き品 つぐみ、うずら、むな黒、きょうじょう、黄脚、ぼと、雲雀、鶴、雉子、鴫、山鳥、尾長、ばん、羽しろ、雀、さく、はしき、あいさ、あい黒」の名前がみられる。

『合類日用料理抄』(1689)には「焼鳥」の調理方法が描かれている。「鳥を串にさし薄霜ほどに塩をふりかけ焼き申し候。よく焼き申す時分、醤油の中へ酒を少加え、右のやき鳥をつけ、一へん付けて醤油のかわかぬ内に座敷へ出し申し候。雉子斗は初めよりかけ汁付けて焼き申し候」とあり、江戸時代の初期には焼鳥の料理法はほぼ完成していたようである。

また、鶏を用いた料理を「南蛮」と呼ぶこともあった。鶏を大根と丸のまま煮たもの(『料理物語』)、内臓を除いた鶏に米粉をつめたもの(『合類日用料理抄』)がそれであり、鶏を食べる習慣は南蛮人の手でもたらされたようだ。

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鶴、鴨そして鶏

江戸時代、武家の間で最上の鳥とみなされていたのは「鶴」であった。その優美な姿のためか、茶会や饗宴の席に鶴が登場するようになる。家光の代から「鶴御成」といって鷹狩りで捕った鶴を朝廷に献上し、残ったものは大名たちに贈られた。宮中では、将軍家から贈られた鶴を清涼殿の前で行われる「鶴の庖丁」で天皇に献じられた。

その味の方はというと、角田猛氏の『いかもの』(ダヴィット社刊)によれば「煮ても焼いても不味い」ものだったという。

庶民に愛された鳥肉は「鴨」だった。井原西鶴は『日本永代蔵』の「祈る印の神の折敷」や『西鶴織留』の「津の国のかくれ里」に鴨の料理を登場させている。贅沢な接待の場での料理だが、庶民の生活に鴨が身近な存在であったことが分かる。「人をそしるは鴨の味」「兄弟喧嘩は鴨の味」「いとこ同志は鴨の味」などのことわざにみられるように、思いを抑えきれない、誰もが食べたくなる味のようだった。

鶏や軍鶏も文学作品に登場する。『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』「七段目」のセリフに鶏が登場する。吉良方の目を晦ますため、祇園で遊興にふけっていた大星由良之助は、敵の間者から蛸をすすめられる。そのあと、「これから鶏締めさせ鍋焼きしょ」というのだ。このセリフからも、元禄時代の日本では、鶏が食べられていたことがわかる。軍鶏が登場するのは『三人吉三廓初買(さんにんきちざくるわのはつがい)』で、堂森が軍鶏ネギを買ってくる場面がある。「軍鶏で一杯」というセリフも世話物に多くみられ、鶏や軍鶏の鍋はポピュラーとなってきた。

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肉を手に入れるなら「ももんじ屋」

文化・文政時代になると、江戸には獣店(けものだな)が増えてきた。鎖国されていたとはいえ、オランダとの通商は残されており、はじめは蘭学者たちの間で行われていた肉食が次第に広まり、武士階級にまで浸透してきた。獣店は「ももんじ屋」と呼ばれた。「ももんじ」とは化け物のことで、それらの店の前には「山くじら」と書かれた看板を出していた。安藤広重の『江戸名所百景』の「びくにはし雪中」にはその風景が描かれている。

これら肉食は「薬喰」と呼ばれた。滋養のための肉食であったものの、肉の味は忘れられない人物も多かったようだ。

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幕末のやきとり

江戸時代には、神社の参道で焼鳥が売られていた。米作の妨げになる雀を中心に焼鳥にしていた。京都の伏見稲荷や雑司ヶ谷の鬼子母神では雀の焼鳥が評判となっていた。

若月紫蘭が著した『東京年中行事』「雑司ヶ谷鬼子母神会式」には「このお祭の名物というのは、平生からも名物である小鳥の雀焼の外には、里芋の田楽、紙製の蝶、萱の穂製の梟などがそれで、何ずれも境内に至るまでの長い道の両側で盛んに客を呼んでいる」とある。

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明治時代 ――牛鍋ブームとやきとり

牛鍋ブームが起こった明治維新

明治維新になり、文明開化にあこがれた人々は、牛鍋をその象徴として店に押しかけた。明治五年(1872)、明治天皇が牛肉を召し上がったことも、このブームに拍車をかけた。明治十年(1877)の東京府下では488軒に牛鍋屋が増えたという。仮名垣魯文は『安愚楽鍋』で、「士農工商、老若男女、賢愚貧福おしなべて、牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」と書いた。

石井研堂が著した『明治事物起原』には、「その後(明治十年頃)追々牛肉の需要多くなりしかば…中略…鳥屋もまた牛肉を兼営するやうになり…中略…明治五年七月『愛知新聞』十五号に、同市平の町高木弥兵衛外九人は、馬肉を牛肉と偽りて売りたる科により、各懲役七十日申し渡されたる記事あり。偽牛肉も古き発明なり。また十年十一月二十七日の『読売』に、上野東黒門町野呂義孝の、馬肉を販売せんことを出願したる記事あり」と、牛肉のまがいものが登場したことを記している。

牛鍋人気を受けて、東京では軍鶏屋もあちこちに誕生した。明治中期に平出鏗二郎が著した『東京風俗志』には「鳥肉は軍鶏、かしわ、あひる等を主とす。獣肉は牛肉を主とし、豚肉これに次ぐ。…中略…飲食店・料理店・酢・汁粉・蕎麦粉・天麩羅・蛤鍋・牛肉・軍鶏・鰻等をはじめ、和様の料理屋に至るまで夥しきこと眼を驚かすばかりに、浅草・上野の広小路などには檐を列べぬ。…中略…軍鶏屋・牛肉屋・到る処になきはなく、或いは相兼ぬるもあり」とある。

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柳田國男かく語りき

「やきとり」の歴史に目を向けると、民俗学の祖・柳田國男は『明治大正史 世相篇』で「日本は鶏などでも明治の世になるまで…中略…或いは闘鶏が普通の日の娯楽になってから、始めてシャモの味などを知ることになったのかも知れぬ。兎に角に一時は鶏を食おうとする人の為に、互いに遠方の馴染の無いものと、取替えさせる職業さえできたのであったが、今ではもう野菜作りなどと、ほとんど同じ気持ちの生産になってしまった。狗(犬)とよく似た番兵的任務の、必要が無くなったのも原因であろうが、主たる理由は肉需要の増進、ことに今まで食っていた分が乏しくなったことであった。足利時代の日記類を読んでみると、鳥は雁、鴨、菱食から雉、山鳥、鳩、鶯に至るまで、実に多くの種類と数とを、食べる家では食っていたのもある。鹿や兎の類もまた盛んに捕っていた。ただ家畜には手を着けなかったというのみで、我々は決して精進では無かった」と記している。

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焼鳥屋のはじまりは幕末頃

明治二十六年(1893)に発刊された松原岩五郎著『最暗黒の東京』には「居酒屋の前には焼鳥、焼鯣(やきするめ)、炙(やき)唐もろこしと匂をもって道を塞ぎ…中略…おでん、煮込、大福餅、海苔巻、稲荷鮨、すいとん、蕎麦ガキ、雑煮、ウデアズキ、焼鳥、茶飯、餡カケ、饂飩、汁粉、甘酒等の屋台店はもっぱらにこの彼ら夜業の車夫によって立つもの。…中略…この類の露店午後十時の通行において新橋より万世橋までの総計かつて八十六個を算えき…中略…焼鳥―煮込みと同じく滋養品として力役者の嗜み喰う物。シャモ屋の庖厨より買出したる鳥の臓物を按排して蒲焼にしたる物なり。一串三厘より五厘、香ばしき匂い忘れがたしとて先生たちは蟻のごとくに麕って賞翫す」とある。

この記述から、明治の半ばにやきとりの屋台が誕生し、車夫を中心に鶏の臓物を蒲焼にしたものが一串三~五厘で売られていたことがわかる。

明治三十七年(1904)発行の『実業の栞』にも同様の記述があり、「焼鳥の嚆矢というべきは詳細には知るあたわざれど、今も神田の仲町に往してこれを業とするガラ萬と呼ぶ髷爺(ちょんまげおやじ)なり、祖父の代より同人に至って三代この業に従事せりといえば、まずガラ萬をもって嚆矢とみるべく、萬世橋(よろずばし)附近の各焼鳥屋は、皆この老爺より拡まりしものなるべし」とある。この記述が本当とすれば、幕末頃から焼鳥があったことになる。

明治11年に創業した「蝶屋」は、鷹の餌として雀を宮内庁に納めていたが、雀が取れすぎるため、焼鳥屋を始めたといい、明治半ば頃に書かれた著者未詳の『浪華百事談』に「駄六という鶏肉割烹舗開業し、大いに繁昌…中略…大豊といふもの又開業して繁昌せり。これは天保の季か弘化のこと」とあことから、焼鳥屋の発祥は幕末と断じてもよいかもしれない。

この時代のやきとりは、鳥肉だけではなく、牛や豚の臓物もあったというから、「やきとり」の材料を鶏肉、豚肉、果ては馬を使うのがおかしいと目くじらをたてるのは変なことかもしれない。「目くじら」ならぬ「山くじら」が当初からやきとりの材料だったのだ。

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大正時代~現代 ――やきとりの新しい動き

関東大震災や敗戦に傷ついた人々の心を癒すやきとり

大正十二年(1923)に関東大震災が起こると、焼鳥の屋台が東京のあちこちに誕生した。屠殺場から出る内臓を貰い受け、豚の内臓を使った「焼とん」が人気を集めている。昭和初期になると、鶏肉を使った高額の焼鳥も誕生した。それらの中には、鶏鍋を中心とする料理屋が焼鳥屋へと転身をはかった店もある。

敗戦後、闇市にやきとりの屋台が登場した。代用の醤油や砂糖に代わるサッカリンなどでつくられたタレで焼かれたやきとりは、飢えていた人々の胃袋と心を満たしていった。日本は戦災から次第に復興していき、やきとり店は屋台から固定店鋪へと移っていった。

焼鳥の大衆化がはじまったのは昭和三十年代に登場した食肉用ブロイラー普及の影響が著しい。鶏の価格が安くなり、身近な食材となったためである。この頃から、大衆焼鳥店が多く登場してくる。サラリーマンが会社帰りに立ち寄る場所として駅の近くに焼鳥屋が目立つようになる。

消費者の嗜好も変化した。安さだけではなく、味で勝負する時代となったのである。差別化を図るため、地鶏を使う店も増えている。安さと味の点からも全国的に焼き鳥は人気を集めており、チェーン展開を図る店が増えてきた。

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やきとりの新たなる発展をめざして

鶏は高級食材であり、上等な部位の串や野菜など従来にない種類の串も焼鳥屋に登場した。特にささ身はあっさりした上品な味により人気メニューとなっている。
昭和三十年代頃から普及した食肉用ブロイラーは、各地で飼育されるようになったの普及により焼鳥の大衆化がはじまった。鶏の価格が安くなり、身近な食材となったためである。

この頃から、大衆焼鳥店が多く登場してくる。駅の近くにサラリーマンが会社帰りに立ち寄る場所として焼鳥屋が目立つようになる。
消費者の嗜好も変化した。安さだけではなく、味で勝負する時代となったのである。差別化を図るため、地鶏を使う店も増えている。安さと味の点からも全国的に焼き鳥は人気を集めており、チェーン展開を図る店が増えてきたのである。また、地鶏や銘柄鳥の開発やメニュー開発、従来イメージと違う店鋪づくりなど、やきとり革新も顕著にみられるようになってきた。

海外でも、やきとりは日本料理として認識されるようになっており、全世界にやきとり人気は拡がっているようだ。

平成十八年(2006)、全国やきとり連絡協議会が設立された。全国各地の「やきとりの街」が集まり、やきとり文化を全国にPRしていこうという試みだ。やきとり全体のイメージアップとファン拡大を図り、従来の夜のイメージからの転換をはかり、ファストフード感覚のやきとりをめざしていくことを目的としている。

この動きは、各地の「やきとりの街」を刺戟し、サミットや日本一宣言、地域での銘柄鳥づくりなどの動きがはじまった。全国やきとり連絡協議会は、やきとりの歴史に新しい一ページを加えようとしている。

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